2023.07.15 INTERVIEW
『Rain』にまつわるアーティストとの対談シリーズ。
今回は、3回にわたり連載するevalaと唐津絵理による対談のvol.2をお届けします。
vol.1はこちら
唐津:『Rain』の場合は、evalaさんが自由に作曲することに比べると、ある意味非常に制約のあるプロジェクトだと感じています。時間もある程度決まっていたり、ダンスや美術があるという制約とも言えるし、一方で、提案に対してどう応答してくのか、一緒に協働しているとも言えると思います。その中で、今回どのようなことを目指されましたか?
evala:まずは原作を読むところから始めました。原作ではタイトル通り「雨」が初めから最後までずっと降り続いていて、湿気と陰鬱が続くじとーっとした世界の中で、ある時は太鼓のように激しく屋根に叩きつけられる雨の音が、ある時は滝のようなスコールに視界を奪われます。熱帯雨林に行った時の、あのねっとりと絡みつく湿気と耐え難い暑さを思い出しました。その中にいるとだんだん頭が沸いていくような…。そういう空気感を強烈に感じました。
『Rain』の舞台上では、動くダンサーと対をなして大巻さんの美術がスタティックに存在し続けます。そこで鳴らすべき音を考えた時に、いわゆるダンス作品やバレエ作品のように、楽曲がシーン毎に作られ順々に出されていくようなものではなく、大巻さんの美術に近い“雨“のような存在として、初めから最後までずっと変容しながらそこに降りそそいでいくものをまず考えました。そして、それが会場全体に湿気のような空気の重さを作ったり、美術の質量自体がまるで変化しているような錯覚を与えたりしていくことを目指しました。
唐津:evalaさんがコンセプトにされている「見えないものを扱っていく」ことと、小説のストーリーをなぞる訳ではなくて、私たちがこのプロジェクトで試みようとしている小説に書かれていないことをお客様に感じとってもらいたいということに凄くリンクしているなと感じています。雨や湿気を感じさせるためにどのような素材やプロセスで作曲されたのでしょうか?
evala:素材は全て声とコンピューター上のシンセサイザーから作っています。そしてそれらをコンピューターの中で組み合わせた後に、再び会場空間に散りばめ、駆け巡らせたり充満させたり、雨のように降り注がせたりと、音を運動させていきます。
原作を読んで感じたことは、正しいか正しくないか、理性か本能か、禁欲か快楽かというような二項対立では語れない複雑な人間模様の上から、人間の立場とは異なる”雨”という現象によって、人間それぞれの”悪”がどんどん炙り出されていくことでした。そこで、登場人物の心理や感情を反映するような音楽をつけるのではなく、人間の手が届かない次元にあり、影響を与え続ける見えない存在としての雨を目指したわけです。
一神教の存在が背景にある物語ですが、人間の祈りとして西洋音階を基調とするメロディやリズムが入ってくる楽曲ではなくて、“雨”のような現象的なものを、いかに”雨ではないもの”で表現できるかという音響探求で、非現実な声や、電子音を使って作曲していきました。
また今回の『Rain』のクリエイションで面白いなと思ったことは、東洋的な作品になってるんじゃないかという点です。バレエを生み、美術の主流である西洋文化は、視覚的で言語的。その音楽は音階として分解する楽譜があり非常にロジカルです。一方それ以外の、僕たちが暮らす東洋の文化では、目に見えないものをすごく大事にすると思うんですね。今回の大巻さんの美術や僕の音楽も、目に見えない捉え所のないものの気配がダンサーの背後に強烈に存在するので、視覚的・言語的・演劇的な正統派のバレエやダンスにはないような奥行きがあると思います。
唐津:そうですよね。身体表現も今言われたこととすごく近いところがあって、西洋の文脈のダンスと音楽の関係では、その音楽を視覚化するって言い方をされることが多いと思います。ダンスが音楽を再解釈しているみたいに。この作品では、もっと身体が作り出すその場の空気感を観客の方々に感じてほしいという気持ちがあって、今回は「体感」が一つのコンセプトになっています。それを実現するためには、余白の多い、正解のない世界っていうところに、お客さんを連れていくことができればなと思ってました。
振付との関係について、ムーブメントがあるのにぴったり合わせるか、あるいは合わせないかということも含めて、ムーブメントとどのような距離感を持って、音楽をそこに存在させようとされていましたか?
evala:ダンスのみならず映像への音楽にも思いますが、音楽は感情の支配力が強いと思うんです。同じ動きをしていても、調和した音が鳴るのと不協和音が鳴るのとでは、全く違う解釈や心情を生みます。
「雨」の存在を作曲しようとしたときに、西洋的な解釈の音楽に回収されないようにしなければならないし、ムーブメントがあるからといって、動きを補強するように合わせすぎると、あざとい演出になってしまう。だからといってムーブメントと降りしきる「雨」を完全なる無関係にしてみると、そこに他意が生まれて無関係にすること自体が不可能であることに気付かされます。ダンサーの自発的な動きと独立した現象、それらがどう関係していくかというところに最も神経を使いました。
唐津:そうですよね。最初に踊りがある場合に、どのくらい音とその踊りが寄り添うのか?ということを考えました。例えば、ジョン・ケージとカニングハムの関係等を思い出します。多分すごく寄り添うと面白くないけど、だからといって、ただパラレルにしてしまっても、それはもうやり尽くされてきているところもあると思います。そのような関係性の中で、どこまで合わせるのか、合わせないのかは一番重要なのではないかと感じています。
evala:合わせすぎると音楽の視覚化に陥ったりもしますしね。舞台や映画を鑑賞した後に「あの音楽がすごかったね」という反応は、ある種成功でもあり、ある種失敗でもあると僕は思っています。舞台音楽は、縁の下の力持ち的なところがあって、うまく行った時ほど、それが目に見えるものへの評価となっていきます。僕個人としてはちょっと複雑ですが(笑)。舞台に目を凝らしながら、目に見えない音によって瞬時に異世界へ誘なわれ、躍動や感情が生み出されていく。『Rain』では、「あの曲がよかった」と言われるよりも、意識の奥側に潜み、身体がとらわれるような没入感や重さ、あるいは匂いとして感じ取ってもらえたら僕にとって嬉しいことです。
vol.3につづく
■vol.1 サウンドアーティストevalaの創作プロセスとは
■vol.3 テクノロジーで引き出す新しい知覚